『ヤッターマン』


 だから三池監督の作品だっつってんのに、保護者の連中はなぜ子供を連れて劇場にやって来るんでしょうか。単に学習能力がないのか(『妖怪大戦争』)、あるいは自分の息子を生首ボールでサッカーをするような腕白に育てたいのか(cf.『極道戦国志不動』)、まったくもって理由は定かではありませんが、とにかく初日の今日は子供連れが沢山いたなあ。しかし残念ながら、この映画は昭和期に子どもだった人に向けて作られた映画であることは明白なので、平成の子ども風情などはお呼びでないのであった。

 説明しよう。つまり、この映画のコアは深田ドロンジョの醸し出すエロチシズムと悲哀というところにしか収斂しようがないのであるから、子どもが観てもしようがないのである。
 昭和の子どものオスの150パーセントはドロンジョ様によって性に目覚めさせられたという統計からもおわかりのとおり(死せる魂の会調べ)、誰もが心の中に自分だけのマイドロンジョ様をもっています。要するに、誰がドロンジョを演じたところで必ず大きな不満が出るわけです。そんなリスクの高い難役をいったい誰が演じられようという大問題のため、本作は今まで映画化を見送られ続けてきたに違いありません。
 そこへきて今回の深田さんの新解釈ドロンジョは本当によかったです。「悪女なのに処女」という前代未聞の二律背反を例の舌足らずな口調でみごと演じきった深田恭子さんの素晴らしさ。しかもこの人の魅力はエロだけではないのだ。たとえば「天才ドロンボー」を歌うシーンでは、「映画史上屈指の低偏差値ミュージカル」という大仕事を何食わぬ顔でこなし、本当にバカとしか思えない歌とダンスを心ゆくまで見せつけてくれる。役者バカというか、それとも本当に何も考えていないバカな役者さんなのか、正直判じかねるところもあるのだけれど、あくまで仕事の結果を見る限りにおいて断言できます。この人は本当に素晴らしい女優さんだ!

 さらに説明しよう。平成子どもが本作の鑑賞に不向きな理由その二。
 連中の体内には山本正之成分が欠乏しているのです。昭和の子どもの体内では遺伝子レベルで結合していることでおなじみの山本正之成分がやつらには全く足りてないんですよね。劇中かかりまくる山本ソングの数々に、僕ら昭和の子どもはゲノム単位で大興奮。これはちょっとズルいと言わざるをえないレベルでかかりまくる。しかもヤッターキングの歌はクロマニヨンズが歌っていたりとかして、なんだかいちいちかっこいい。こういう遺伝子レベルの音楽に合わせてヤッターマンが変身したり、ボヤッキーがアラホラサッサーと言ったり、ヤッターワンが勢いよく出動したりするわけでしょ。ついでに新解釈ヤッターワンにはゼネバス帝国製のような全身ゼネバスレッドのカラーリングが施されていたりするわけでしょ。これはもう、昭和的にいってたまらないものがあるわけですよ。むしろ平成子どもにこの作品を観られることは不快ですらある。できれば21禁作品にしてほしい。来年になったら22禁にしてほしい。

 あとは何を書こう。えーと、僕が三池映画で着目しているのは「ピンチ」をいかに表現するかというところです。『妖怪大戦争』では、東京に妖怪大軍団が襲来する大ピンチのとき、大地の鳴動によって皿の上のゴボウ天からゴボウが飛び出し、それを見たおっさんが「ごぼ天のゴボウがー!?」と絶叫する……そんな神シーンがありました。
 今回は、ドクロストーンの呪力によりあらゆるものが消失するという大ピンチを表現するにあたり、「ジャンボパチンコ」というパチンコ屋の看板からパが消えることによって木更津の女子高生を赤面せしめるという、これまた神シーンとしか言いようのないシークエンスがありました。ドクロベエとの最終バトルでの大ピンチぶりを一言で表現するための台詞が「俺の金玉がもう持たない……」だったところも本当に素晴らしかった。僕、三池監督(太腿ずき)の映画を一生追い続けることを改めて誓います。

『街の灯』

 Tomorrow the birds will sing. 明日が来れば鳥も歌うよ。と、今まさに自ら命を断とうとしている哀れな富豪にむかって浮浪者のチャップリンは言ってあげるわけですよ。Tomorrow the birds will sing.本当にいい言葉だなあ。昨日tumblrをしていたら、「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ」という芥川龍之介の一文が流れてきたのですかさずreblogしたのだけれど、それはたとえばこういうことであったりするのかなあ。こんなに単純な単語の羅列が、鑑賞後十年を経てなお僕の心をうつ。

 
 この映画の見所は、なんといってもラストシーン。苦労の末に得た大金で盲目の花売り娘の手術代を工面してあげたものの、当のチャーリーはわけあって刑務所送り。時がたち、出所したチャーリーは花屋へ向かうが、目が見えるようになった花売り娘は莫大な手術代を払ってくれた匿名の人物がまさか目の前の浮浪者とは夢にも思わない。ところがしかし……といったかんじの結末には心が洗われる思いがします。チャップリンの自伝か何かによれば、彼の隣で本作を観ていたアインシュタインもラストシーンでは舌を出しながら涙をぬぐっていたのだとか。舌を出していたという記述はなかったかもしれませんが、まあそんなことは些事末端。

 僕も元来が心根の優しい人間ですから、ラストシーンでは感動の涙がこみあげてきたものですよ。こういう映画を観ると清々しい気持ちとなり、愛情やまごころをもって他者にも接することが出来るようになりますよね。僕なんかはほら、日ごろから素晴らしい映画作品ばかり観ているものだから、そういう善趣の精神が体内に蓄積しまくって、衆生に対する慈愛のまなざしもはや尋常ならざるものとなり、もしかしたら56億7千万年後に下生して衆生を救う弥勒菩薩とは僕のことではないのかという推論さえ抱いていますよ。慈愛に満ちた悟りの境地でもって、今日はこれから半跏思惟のリラックスポーズで『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』でも観ようかな。おっと、善のカルマがさらに蓄積!

 上質な映画ばかり観続けたことによって精神が高邁となり、憎しみ・怒り・煩悩といったおろかしい感情から解き放たれつつある「早すぎた弥勒菩薩」こと僕ですが、先ほど瞑想しながらよっくと考えてみたところ、ほぼ解脱しかかっている僕でさえ許すことのできないものごとが世の中に残念ながら三つだけ存在したので、それがいったい何かということをこれから衆生の皆さんに説法してさしあげたいと思います。


その1 クイーンズ伊勢丹杉並桃井店が来月からレジ袋を有料化
 超ローカルな話で恐縮ですが、ふざけるんじゃないよまったく。世界ぐるみで消費を拡大してゆこうね、景気拡大がんばろうね、と言いあっているこのご時世に、資源を削減しようとは一体どういう料簡だ。そもそも僕、エコロジーとか言ってる人は馬鹿で不遜で傲慢な愚者だと思っています。なんでお前一般衆生のくせして地球より目線が上なの? あと56億年生きる僕ならいざ知らず、100年も生きない衆生ふぜいがなんでそんなに地球環境を気にしなきゃならないのか心の底から理解に苦しみます。まあ、馬鹿が勝手に環境活動を行う分には害はないけど、そういう馬鹿が騒ぐせいで僕まで巻き添えを食って、来月からは頭陀袋かついでエッサホイサとクイーンズ伊勢丹に買い物に行かなきゃならないわけでしょ。んなことやってられっか。エコとか言って他人に迷惑をかける馬鹿は大日如来先輩あたりに頼んで焼きころしてもらおうと思います。

その2 東方の霊夢
 僕は僕という動物の習性・生理現象として月イチくらいの頻度で、googleやpixivで「巫女」なる文字列を入力し、その検索結果から得られる画像のいくつかを任意で保存するという作業をずっと続けているのですが、さいきん検索結果に“霊夢”とかいうわけのわからないキャラクターが引っ掛かりまくって、そのノイズっぷりに辟易しているわけです。まあ、百歩ゆずって、この霊夢とかいうキャラがきちんとした巫女装束を着ているのなら、僕も大人さ、こんなところでいちいちクダを巻いたりはしないよ。これはという絵があれば僕の巫女フォルダに保存してやることだってやぶさかじゃあないんだ。ところがどうだ、その霊夢とかいうあばずれの着ている被服、いったいあれはなんだ。あれが果たして巫女の装束といえるのか。あれはもはやただの、センスのないお洋服とおリボンではないのか。あんなものは偽物だ。贋物だ。あんなへんな服を着た女を巫女と呼ぶのは、ハヌマーンウルトラ兄弟の一員としてカウントするくらい滑稽で愚かしいことなので、一刻も早くgoogle霊夢google八分すべきだ。そして、あのくだらない衣装を発明した絵師は阿鼻地獄に堕ちて六十四の眼を持ち火を吐く鬼に舌を百本の釘で打ちつけられてしまえばいい。 
その3 歩きたばこ
 問答無用で死ね。すぐ死ね。


 数億由旬の広さとうたわれた僕のこころも、こうしてみると大したことがないようであった。むしろ狭い。というか狭すぎる。病的に狭い。羅漢もおどろくこの狭さ。してみると、僕はもしかしたら弥勒菩薩じゃないのかもしれません。より詳細な調査・検討を経たのち、正式な判断は追って報告します。

『おいしい生活』

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 あ、なんかこの人いいなあ、と僕が好印象を持つ女性は58パーセントくらいの確率でウディ・アレンの映画が好きだと言うので、これは押さえておいて会話の引き出しとして活用せねば、と考えウディ・アレン映画を見まくった若き日々を、ゆえあって勃然と思い出したのでウディ・アレン映画のことを書きます。

 基本的にウディ・アレンの映画というのは何百ガロンもの血がドバドバ流れたりとか、NYのタイムズ・スクウェアに広島やくざが顕現して「文句あるのかよう!」とすごんだりとか、おしゃれなバーの一角でJJサニー千葉千葉真一)がほじった鼻くそをカクテルの中に混ぜてほかの人に飲ませたりとか、そういう僕をダイレクトに楽しませてくれるシーンが皆無なのでわりと退屈に感じつつも、まじめに腰を据えて観ると、まあたしかにどの作品もけっこうよく出来てて面白いような気がする。JJサニー千葉が出れば彼の映画は更に面白くなると思うので、あとでアレンにJJサニー千葉のことを教えてあげようっと。ヘイ、アレン、サニーチバ、チェンジドネーム“JJサニーチバ”、“JJ”ミーンズ、ジャスティス・ジャパーン、とか言って。しかし、それにしてもどんだけかっこいい芸名なんだJJサニー千葉。70歳手前の人間の芸名としてそれでいいのかとふと心配になるレベルのかっこよさだよジャスティス・ジャパン! 僕も彼を見習って海外ではJJコジューロー・ヒモロギと名乗ることにしよう。

 アレンさんの映画の中で、ベタで小粒ながらも一番僕の記憶に残っているのは『おいしい生活』かなあ。地底を掘り進んで銀行の金庫に突入するという頭わるげな計画を進める犯罪グループがカモフラージュとして銀行のそばに開店した形ばかりやる気ゼロのクッキー屋が思いのほか繁盛してしまい、遂にはクッキー屋の世界的なフランチャイズ展開で財をなしてしまうというまぬけなサクセスストーリーが馬鹿馬鹿しくて面白い。金持ちになってめでたしめでたしと思ったら、生活が豊かになりすぎたせいで夫婦の関係がうまくいかなくなり、その後会計士に金を横領されて無一文になり、それを機縁としてまた夫婦の関係も変わっていく、みたいなかんじで、禍福はあざなえる縄のごとしであるといわんばかりの教訓的なコメディ映画。まあこういう、毒にも薬にもならないようなかんじの映画もたまには悪くないですね。

 ところでそういえば、「禍福はあざなえる縄のごとし」っていうのはひとつの真理ではあるなあと思うのですよ。
 こないだ森を歩いていたら、道のわきの木の上に見事な蜂の巣が下がっているのを見つけまして、こりゃ美味そうだツイてるぜ、ってんでその木にするするとよじ登り、蜂の巣をたたき落とし、蜂蜜を手でかきとってンマーインマーイと頬張っておったんですが、体表面の至るところを怒り狂ったハチに刺されまくって毒がまわりその場にコロリと倒れ、これまさに吉の後の凶。それでも死なずにすんだのは不幸中の幸いといったところではありますが、蜂蜜なんつうアホみたいに甘いものを食ったあと歯を磨かずに気絶しため虫歯となりこれまた凶事。しかし凶事の後にはやはり吉事が巡ってくるもので、歯医者に出むいたところそこの女医さんがことのほか美人で、それのみならずなんかこの女医さん、治療の際に胸をぐいぐいと僕の頭頂部に押しつけてくるんですよ。僕は今までの歯科受診人生で女医さんに治療してもらうのは今回が初めてなのでよくわからないんですが、世の女医さんというのはこんなにも情熱的に胸を押しつけてくるものなのだろうか。ちょっとありえないぐらいの押しつけっぷりに狼狽しつつ、思いがけぬ過剰サービスに歓喜し、毎週サボらずせっせと歯医者に通いつめている次第。

 というかまあ、歯医者にかかるまでのエピソードはてきとうな作り話なんですが、胸をぐいぐいしてくる美人女医さんの話はほんとだよ。人生ってマジ素晴らしいというか、驚きと輝きに満ちているよね。
 それにしてもこれはさすがに従来の禍福のバランスからいって福サイドへの振れ具合が大きすぎるので、この後それに相当するだけの超弩級反動禍が僕を待ち構えているに違いない。きっとこのぐいぐい女医さんの正体は三池監督の『オーディション』に出てくるサイコパスみたいな人で、僕を麻酔で眠らせたあと椅子に全身を縛りつけ、「きりきりきりきりー」とか言って酷薄な笑みをもらしながらドリルを体中の神経に突き刺し僕の体をなぐさみものにするんですきっと。でも通うんだよね。だっておれ男だから。おれはゆく。その大禍を超えたところに、さらに大きな幸福が待っていることを信じて……。

『ワンダとダイヤと優しい奴ら』


 ロンドンの銀行を襲撃した強盗チームが手に入れたダイヤをめぐり各種悪知恵や浅知恵を働かせたり働かせなかったりする英国風味クライムコメディ。英国風味というよりもモンティ・パイソン風味といったほうがよいかもしれませんね。どもりのキャラが徹底的にいじられたり、動物愛好家の男がまちがって犬を何度も何度も殺してしまうネタなんかはまさにモンティ・パイソン的。

 本作がモンティ・パイソン風なのは、パイソン一味のジョン・クリーズらが製作・出演しているのだから当然のこと。僕はこのジョン・クリーズさんが大好きで、2メートル近い長身にも関わらず俊敏な動きでバカなことをするのがどうにも面白い。「モンティ・パイソン」の名作スケッチとして必ず名前のあがる「バカな歩き方省」なんかは大傑作で、何度見ても笑えるものなあ。

 僕はジョン・クリーズという生き物が動いているのを見ているだけで楽しいので、したがってこの映画もとても楽しい。動いているのを見ているだけで楽しい生き物なんて、ジョン・クリーズの他にはあまりいないんじゃないかな。うーん、強いて挙げれば、あとはブルース・リーと、土方巽と、あとは奇蹄目になっちゃうけどクロサイとかインドサイくらいかなあ。

 話は逸れまくりますが、僕はサイという生物が動くのを見るのが大好きでして。上野動物園にふらふら出掛けては、飽かず西園のヒガシクロサイとかを観察したりしています。
 サイはねえ、とにかくかっけーんですよ。なんていうんだろう、オスの原初的本能的なサムシングをガツガツゆさぶるかっこよさっていうの? レッドホーンというゼネバス帝国軍サイ型ZOIDSが既に存在しているにも関わらず、同じくサイ型のブラックライモスが新たにリリースされたというトミーの販売戦略からもうかがい知れるサイの絶大なる男子人気。男の子ならみんなサイのかっこよさがわかるよね。やつらときたら恐竜臭ムンムン、21世紀の御代にもなってあのフォルムはぶっちゃけありえないよね。ありえないくらい無骨でかっこいいよね。体の中心軸にセットされ突進時には決してブレることなく獲物をロックオンして刺し貫く巨大で凶悪な角、鉄板より硬い装甲(誇張表現ではない!)で覆われた全身、そして悲しみと殺意のこもった狂気の眼差しはまるで公儀介錯人・拝一刀のようだよ。かっけーなー! かっけーなー! しかもこいつら動くんですよ。あの武装とあの重量にもかかわらず自立し、なおかつ時速50キロで走るとかマジありえんですわ。造物主はいったい何をしたかったのか。悪ノリがすぎるのではないのか。おお神よ。なぜこんな殺戮マシンをお造りになられたのか神よなぜ。敬虔な信仰心さえ揺らがしかねないその悪魔的デザイン。かっこよすぎるうえに強すぎる。サイと人間が戦争をしたら人間が負けるような気がしてならないので、万が一にもそのような紛争が勃発せぬよう国連には頑張ってほしい。世の中にサイの国があるのかないのか、あったとして国連に加盟しているのかしていないのか僕はよく知らないけれど。

 とまあ、ジョン・クリーズモンティ・パイソンの話をするつもりが、ほとんどサイの話に終始してしまい御免なサ(公序良俗を乱すレベルの駄洒落に付き検閲削除)

『デス・レース』


 その中二病的世界観が世界中の中二から大絶賛された『デス・レース2000年』のリメイク作。 
・原作の得点加算方式(レース中にひいた人間の種別によって点数加算。女性40点、少女70点、年寄りは性別問わず100点)がなくなった
・物事の道理を解さぬ小4がデザインしたミニ四駆みたいなデザインの車ばかりだった原作と比べて、本作はまったく普通でつまらない没個性的なデザインとなった
・悪いスタローンが出てこない(よいスタローンも出てこない)
の三点は大幅な減点対象ですが、それを差し引いたとしてもそれなりに面白い作品ではありました。原作と同様に話のつじつまは滅茶苦茶でしたしね。

 今回は民間刑務所が営利のために囚人を使った危険なレースを放送して大金を稼いでいるという設定で、アメリカのケーブルテレビで本当に放送してそうなかんじのフェイク番組の作りこみなんかはすごくよかったなあ。というか、アメリカは本当にこういう番組を作りそうだからあなどれない。

 なお、今回のレースはあくまで視聴率を稼ぐことが目的なので、レースがダレて視聴率が下がったとみるや、刑務所の女所長は超弩級殺戮トラック“ドレッドノート”を発進させ、特にこれといった理由はないのだけれどレース中のマシンを破壊し、なんとなくレーサーを殺しまくります。刺激を求める視聴者にとってはなんとも心憎いテコ入れではありませんか。昨今くだらぬ番組を作りすぎて視聴率の低迷にあえいでいる日本のテレビ業界も、女所長の真摯でアイディアに満ちた番組作りに学ぶところが多いのではないだろうか。

 たとえば、例によってしょうもない雑学クイズやニュースもどき番組を放映しているとするでしょ。なんかこの時間帯は視聴率低そうだなあ、と感じたプロデューサーが手元の「視聴率バースト」とか書いてあるボタンを押すと、ドラクエ3カンダタみたいな恰好のあらくれがスタジオに登場、彼のいかつい手は特定の宗教を信仰するタレントの髪の毛をむんずと掴んで引きずっておるわけです。そしてその特定の学会に所属しているタレントをひな壇のようなところに上げて、そして番組進行とはまったく脈絡なくそいつのおしりを思いっきり蹴っとばす。さすればきっと視聴率はうなぎのぼりに違いない。そしてお尻を腫らしたタレントが退場してから、何事もなかったように雑学クイズを続けて「お中元」の由来とかをまた皆で考えればいいんじゃないの。そして某学会タレントの流す血の匂いにつられてチャンネルを合わせた悪たれ視聴者どもはお中元の起源が実は道教の暦にあったことを知ってたったの0.5ミクロンくらい賢くなり、プロデューサーは視聴率が向上したことによって上機嫌でザギンにグーフーを食いに行き、そして業界からは害にしかならない某学会タレントがほんの少し駆逐され、三方一両得なんじゃないの。まあ、僕はアニマルプラネットしか観ないから日本のテレビのことなんてどうでもよいのだけれど。日本のテレビとかって、なんかこないだ『エドはるみ物語』みたいなの放送してたんでしょ。そりゃないよ。堕ちるとこまで堕ちたというか、いくらなんでも堕ちすぎです。地獄の階層でいったらコキュートスくらいの深さですよそれは。もっとしっかりしてください。

『トロピック・サンダー』

地獄の黙示録』は今でこそ戦争映画の金字塔とされていますが、撮影中はトラブル続きで監督のコッポラさんはめちゃんこ大変だったそうです。ハーヴェイ・カイテルの降板に始まり、マーティン・シーンは心臓麻痺でダウン、マーロン・ブランドは肥えすぎちゃって役に合わない、そのうえデニス・ホッパーとたいそう仲が悪く、そのデニスさんはといえばヤク中でアーウー言うばかりでロクに台詞が覚えられず、大金はたいて作ったセットは台風に破壊され、レンタルした軍用ヘリは地元のフィリピンが政情不安のためロケ地を見捨てて本物の戦地目指して飛び去っていく始末。ここまで不幸が続くともはやギャグでしかないですね。僕がコッポラさんの立場だったら、心労のあまりコッポラ・コッポラ・バヒンバヒンとか言う茶魔語的なギャグフレーズを編み出しつつ、撮影を放り出してアメリカに逃げ帰り、もう映画はコリゴリぶぁーいっ、と叫びながら飛び上ったところで画面が静止し、画面がキューッと円形にしぼみ、顔部分を残して暗転、そこで静止画が再び動きだし、画面の前の視聴者に向かって「さいなコッポラ!」などという、言葉遊びとしてまったく成立していない謎の文言を言いのこして終了、という情けない結末となっていたことでしょう。コッポラ先生は超偉いからその後ちゃんと映画を完成させてオスカーとカンヌを獲ったんだけどね。

 そんな『地獄の黙示録』制作時のエピソードをヒントに作られた(と思われる)コメディ映画が『トロピック・サンダー』。ベトナム戦争映画を撮影中の監督が俳優の我儘・無能ぶりに激怒し、連中を麻薬密売組織の潜む危険なジャングルに放り込むというお話。劇中劇(各俳優の主演映画のトレイラー集と劇中映画『トロピック・サンダー』クライマックスシーン)のふざけっぷりが愉快すぎます。僕はもうこれから一生、まじめに『プラトーン』を観ることができない体質になってしまった。

 監督兼主演のベン・スティラーが彼の俳優としての出世作メリーに首ったけ』のシナリオにどの程度絡んでいたのか全然知りませんが、本作のギャグのノリは『メリー』と同質でした。ハリウッドをコケにするというテーマの裏で、不具者ネタ・知的障害者ネタ、黒人ネタ、愛すべきパンダをぶっ殺して皮をはぐ動物虐待ネタ、幼児を川にブン投げて笑いを取る幼児虐待ネタなど、「弱者」の笑い飛ばしっぷりに余念がなく、そのあたりが見ていて大変好ましい。

 権威や強者をネタにして笑いをとったり風刺したり、みたいなことは日本だったら江戸時代の狂歌とか、あるいはもっとずっと遡って建武の新政あたりの頃から、このごろ都にはやるものー、夜討強盗にせ綸旨ー、なんつったりなんかして、それはもう大昔からいろんな人がネタ見せをしてきてるわけですから、もういい加減飽きてるじゃないですか。えーっ、その「無知な為政者あるあるネタ」200年くらい前もやってたじゃーん、俺それ見たよーっ、みたいなかんじで。そもそも簡単なんですよね、権力に対する風刺なんて。相手が強大なほどチューニングが必要ないから不器用な馬鹿でもできてしまう。たとえば朝日新聞という反日左翼新聞は執拗に首相をネタにした嘲笑記事をせっせと濫造捏造し続けてますけど、あそこまで反国家権力一辺倒なのはなぜかというと、記者の思想が偏っているとか頭がおかしいとかそれ以前に、記事を一個の作品としてまとめるにあたっての腕とセンスに乏しいせい、要するにラクして頭を使いたがらない馬鹿が書いてるからなんですね。右派サイドの人たちが朝日の記事に文句をつけるのは馬鹿にむかって馬鹿に効くクスリを探してつけろと言っているのと同義であり、まあ酷な話ではあります。

 弱者を笑いとばすという発想は、特に戦後は見る機会が少ないし、相応の能力と教養が必要とされるためこれをこなせるコメディアンは日本には皆無でもあるので、弱者を含めて全方位的にものごとをバカにできるベン・スティラーとかファレリー兄弟とか、あとは『サウスパーク』のトレイ&マットあたりにはこれからもコンスタントに作品をリリースし続けてもらいたいところ。
 そういえばベトナム戦争映画『フルメタルジャケット』の実質的主人公、ハートマン軍曹は部下に向かって言いました。
「俺は厳しいが公平だ。人種差別は許さん。黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見くださん。すべて……平等に価値がない!」
けだし金言だと思います。この世の真理とさえ思えます。笑いの対象も横並びであるべきで、そこに不可侵領域を設けるのはナンセンス。本作に抗議した米国の障害者支援団体はハートマン軍曹のありがたい訓示をふるえながら拝聴し、人類みな等しく両生類の排泄物をかき集めた程度の値打ちしかないことを体で理解するべく、おしりの穴でミルクを飲むようになるまで軍曹にシゴき倒されればよいのになあガンホーガンホー

『レッドクリフ』

 いやもう三国志が大好きで大好きで。
 僕の場合、入り口はスーファミ版『三国志3』で、その後は吉川版『三国志』→横山版『三国志』→中国中央電視台版『三国志』→マンガ『蒼天航路』→オンラインゲーム『三国志大戦』といったかんじの三国遍歴。今も北方版三国志を読みながらDSで『三国志DS2』をプレイしています。

 それと僕はジョン・ウー監督が好きで好きで(特に好きなのは『男たちの挽歌』シリーズとか『ワイルド・ブリット』とかハリウッド進出前のものではありますが)。彼の作品の根底に流れる仁義イズム、男イズム、お百姓さんの作ったお米を大切にしようイズム、鳩が大好きでしかたがなイズム等々、こころふるえるイズム各位に心酔し続けており、ヒマさえあれば出先でipod touchに入れた『男たちの挽歌』を観て号泣する人生を送っているわけです。

 そんな折。大好きな『三国志』を題材に、大好きなジョン・ウー監督が映画を撮りました。その名も『レッドクリフ』。これはどういうことか。僕にとってどんくらいの事件であるか。

 三国志でわかりやすくたとえます。あのさ、たとえば僕が魏の曹操孟徳だったとするでしょ。ある日の昼下がりに曹操が、というか僕が、なみいる諸将を集めて軍議をしているわけ。烏丸族とかって最近ちょっとシャシャってね? あいつらマジありえねーっすわー。いっぺんシメといたほうがよくね? とかいって。そしたら突然地平の果てからすんごい砂塵を巻き上げて誰かがすごい勢いで駆けてくるのが楼閣から見えるわけ。おいなんだあれは。あの砂煙パねえな。マジでパねーっすわー。ちょっとちょっと夏侯惇、お前あれなんだと思う? ……あ、あんまし見えねえか。お前こないだ自分の目ん玉引きずり出して食っちゃったもんね。わるいわるい。じゃあ郭嘉。そのへんの引き出しにオペラグラスとか入ってない? ちょっと持ってきてよ。みたいなかんじで走り来る物体を確認すると、なんとそれは赤兎馬! 赤兎馬といえば「人中の呂布、馬中の赤兎」と称えられた最高日速1,000里/日のスーパークールな汗血馬。しかも見よ、ピーキーすぎて豪傑じゃねーと乗りこなせないと言われる赤兎馬にまたがっておるのはかの勇将・関羽雲長殿ではないか! 関羽殿といえば、有能な才を広く求めた曹操が最も欲した激レア逸材の一人であり、ついでにそろばんも発明したすごい人! そんな関羽殿と赤兎馬がこちらに笑顔で駆けて来て、「それがしを貴殿のチームにくわえてくだされー」みたいなことを叫んでおるぞ。ははは、善き哉善き哉。天下の趨勢、今ここにきわまれり!

 みたいなかんじ。そういうことなんですよ『レッド・クリフ』という映画は。僕にとって。なんというわかりやすいたとえだ。わかりやすすぎる。

 さっそく初日に観てきまして、たしかに面白かったんだけど、まあ、あまりに期待しすぎた感もあったかなあ。最大のマイナス要因は、やはり赤壁の戦い(水上戦)が始まる前に映画(PART1)が終わってしまうこと。あの原作を映画一本分にまとめるのは土台無理があるので、作り方としては大いに理解出来るんですが。まあ、これは言っても仕方がないことですかね。

 全体的にすごくよく出来ているし、長坂における蜀の諸将の鬼神のごとき活躍ぶりには心震えるし、過去の実写版『三国志』とは比べるべくもなく役者のルックス、戦争シーンの迫力ともに進化しています。しかし不幸なことに、中国を含めた世界の映画ファンに対して、日本の三国志ファンは常日頃よりマンガ・アニメ・ゲームでディープな三国志世界を体験し続けているため、本作の満足度に大きな開きが出てしまう気がします。

 たとえば、魏の武将は本作ではきわめてぞんざいに描かれています。というか、曹操以外誰が誰だかまったくわからない。横山版より見分けがつかぬ。むむむ。魏呉蜀の所属を問わず名のある諸将を徹底的に個性的なキャラクターとして描ききったマンガ『蒼天航路』なんかを読んだ後に観ると、やはりなんかこう、全体的にキャラの造形に物足りなさを感じてしまうのだなあ。孔明なんかも終始にやにやしているだけでキャラが弱いし。

 たとえば、戦闘シーンでは何かと奇抜な戦術や奇怪な陣形が登場したりして、見せ場には随所に工夫が凝らされています。観ていて面白いのですが、しかし僕らは『三国無双』シリーズでもっとはっちゃけた三国戦闘を体験済なので、なにやら不感症に陥っているらしく、あれでもまだまだ物足りないというか。無双シリーズのOPムービーなんて、奇抜すぎてもはや頭おかしいですもんね(以下のURL参照)。 
http://jp.youtube.com/watch?v=hDXW6SGUXs4
趙雲ひとりvs魏軍100万人くらい+曹丕

http://jp.youtube.com/watch?v=UZSF2cWe360&feature=related
凌統vs甘寧 仲間割れがドラゴンボール的バトルに発展してみんな迷惑

 とまあ、なんだかんだいったところで、映像化された三国志はやっぱり楽しいし、ジョン・ウー監督も相変わらず白ハト飛ばしまくりで大好きなので、PART2も絶対に観にいくわけなんですが。それにしても日本の三国志文化ははるか先を行き過ぎちゃってんな、とつくづく思った次第です。呂布が幼女化する話とか、4000年待ってあげても中国人には到達できない境地ですよね。ほんと自分が日本人であることを誇りに思うよ。