『ヤッターマン』


 だから三池監督の作品だっつってんのに、保護者の連中はなぜ子供を連れて劇場にやって来るんでしょうか。単に学習能力がないのか(『妖怪大戦争』)、あるいは自分の息子を生首ボールでサッカーをするような腕白に育てたいのか(cf.『極道戦国志不動』)、まったくもって理由は定かではありませんが、とにかく初日の今日は子供連れが沢山いたなあ。しかし残念ながら、この映画は昭和期に子どもだった人に向けて作られた映画であることは明白なので、平成の子ども風情などはお呼びでないのであった。

 説明しよう。つまり、この映画のコアは深田ドロンジョの醸し出すエロチシズムと悲哀というところにしか収斂しようがないのであるから、子どもが観てもしようがないのである。
 昭和の子どものオスの150パーセントはドロンジョ様によって性に目覚めさせられたという統計からもおわかりのとおり(死せる魂の会調べ)、誰もが心の中に自分だけのマイドロンジョ様をもっています。要するに、誰がドロンジョを演じたところで必ず大きな不満が出るわけです。そんなリスクの高い難役をいったい誰が演じられようという大問題のため、本作は今まで映画化を見送られ続けてきたに違いありません。
 そこへきて今回の深田さんの新解釈ドロンジョは本当によかったです。「悪女なのに処女」という前代未聞の二律背反を例の舌足らずな口調でみごと演じきった深田恭子さんの素晴らしさ。しかもこの人の魅力はエロだけではないのだ。たとえば「天才ドロンボー」を歌うシーンでは、「映画史上屈指の低偏差値ミュージカル」という大仕事を何食わぬ顔でこなし、本当にバカとしか思えない歌とダンスを心ゆくまで見せつけてくれる。役者バカというか、それとも本当に何も考えていないバカな役者さんなのか、正直判じかねるところもあるのだけれど、あくまで仕事の結果を見る限りにおいて断言できます。この人は本当に素晴らしい女優さんだ!

 さらに説明しよう。平成子どもが本作の鑑賞に不向きな理由その二。
 連中の体内には山本正之成分が欠乏しているのです。昭和の子どもの体内では遺伝子レベルで結合していることでおなじみの山本正之成分がやつらには全く足りてないんですよね。劇中かかりまくる山本ソングの数々に、僕ら昭和の子どもはゲノム単位で大興奮。これはちょっとズルいと言わざるをえないレベルでかかりまくる。しかもヤッターキングの歌はクロマニヨンズが歌っていたりとかして、なんだかいちいちかっこいい。こういう遺伝子レベルの音楽に合わせてヤッターマンが変身したり、ボヤッキーがアラホラサッサーと言ったり、ヤッターワンが勢いよく出動したりするわけでしょ。ついでに新解釈ヤッターワンにはゼネバス帝国製のような全身ゼネバスレッドのカラーリングが施されていたりするわけでしょ。これはもう、昭和的にいってたまらないものがあるわけですよ。むしろ平成子どもにこの作品を観られることは不快ですらある。できれば21禁作品にしてほしい。来年になったら22禁にしてほしい。

 あとは何を書こう。えーと、僕が三池映画で着目しているのは「ピンチ」をいかに表現するかというところです。『妖怪大戦争』では、東京に妖怪大軍団が襲来する大ピンチのとき、大地の鳴動によって皿の上のゴボウ天からゴボウが飛び出し、それを見たおっさんが「ごぼ天のゴボウがー!?」と絶叫する……そんな神シーンがありました。
 今回は、ドクロストーンの呪力によりあらゆるものが消失するという大ピンチを表現するにあたり、「ジャンボパチンコ」というパチンコ屋の看板からパが消えることによって木更津の女子高生を赤面せしめるという、これまた神シーンとしか言いようのないシークエンスがありました。ドクロベエとの最終バトルでの大ピンチぶりを一言で表現するための台詞が「俺の金玉がもう持たない……」だったところも本当に素晴らしかった。僕、三池監督(太腿ずき)の映画を一生追い続けることを改めて誓います。