『街の灯』

 Tomorrow the birds will sing. 明日が来れば鳥も歌うよ。と、今まさに自ら命を断とうとしている哀れな富豪にむかって浮浪者のチャップリンは言ってあげるわけですよ。Tomorrow the birds will sing.本当にいい言葉だなあ。昨日tumblrをしていたら、「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ」という芥川龍之介の一文が流れてきたのですかさずreblogしたのだけれど、それはたとえばこういうことであったりするのかなあ。こんなに単純な単語の羅列が、鑑賞後十年を経てなお僕の心をうつ。

 
 この映画の見所は、なんといってもラストシーン。苦労の末に得た大金で盲目の花売り娘の手術代を工面してあげたものの、当のチャーリーはわけあって刑務所送り。時がたち、出所したチャーリーは花屋へ向かうが、目が見えるようになった花売り娘は莫大な手術代を払ってくれた匿名の人物がまさか目の前の浮浪者とは夢にも思わない。ところがしかし……といったかんじの結末には心が洗われる思いがします。チャップリンの自伝か何かによれば、彼の隣で本作を観ていたアインシュタインもラストシーンでは舌を出しながら涙をぬぐっていたのだとか。舌を出していたという記述はなかったかもしれませんが、まあそんなことは些事末端。

 僕も元来が心根の優しい人間ですから、ラストシーンでは感動の涙がこみあげてきたものですよ。こういう映画を観ると清々しい気持ちとなり、愛情やまごころをもって他者にも接することが出来るようになりますよね。僕なんかはほら、日ごろから素晴らしい映画作品ばかり観ているものだから、そういう善趣の精神が体内に蓄積しまくって、衆生に対する慈愛のまなざしもはや尋常ならざるものとなり、もしかしたら56億7千万年後に下生して衆生を救う弥勒菩薩とは僕のことではないのかという推論さえ抱いていますよ。慈愛に満ちた悟りの境地でもって、今日はこれから半跏思惟のリラックスポーズで『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』でも観ようかな。おっと、善のカルマがさらに蓄積!

 上質な映画ばかり観続けたことによって精神が高邁となり、憎しみ・怒り・煩悩といったおろかしい感情から解き放たれつつある「早すぎた弥勒菩薩」こと僕ですが、先ほど瞑想しながらよっくと考えてみたところ、ほぼ解脱しかかっている僕でさえ許すことのできないものごとが世の中に残念ながら三つだけ存在したので、それがいったい何かということをこれから衆生の皆さんに説法してさしあげたいと思います。


その1 クイーンズ伊勢丹杉並桃井店が来月からレジ袋を有料化
 超ローカルな話で恐縮ですが、ふざけるんじゃないよまったく。世界ぐるみで消費を拡大してゆこうね、景気拡大がんばろうね、と言いあっているこのご時世に、資源を削減しようとは一体どういう料簡だ。そもそも僕、エコロジーとか言ってる人は馬鹿で不遜で傲慢な愚者だと思っています。なんでお前一般衆生のくせして地球より目線が上なの? あと56億年生きる僕ならいざ知らず、100年も生きない衆生ふぜいがなんでそんなに地球環境を気にしなきゃならないのか心の底から理解に苦しみます。まあ、馬鹿が勝手に環境活動を行う分には害はないけど、そういう馬鹿が騒ぐせいで僕まで巻き添えを食って、来月からは頭陀袋かついでエッサホイサとクイーンズ伊勢丹に買い物に行かなきゃならないわけでしょ。んなことやってられっか。エコとか言って他人に迷惑をかける馬鹿は大日如来先輩あたりに頼んで焼きころしてもらおうと思います。

その2 東方の霊夢
 僕は僕という動物の習性・生理現象として月イチくらいの頻度で、googleやpixivで「巫女」なる文字列を入力し、その検索結果から得られる画像のいくつかを任意で保存するという作業をずっと続けているのですが、さいきん検索結果に“霊夢”とかいうわけのわからないキャラクターが引っ掛かりまくって、そのノイズっぷりに辟易しているわけです。まあ、百歩ゆずって、この霊夢とかいうキャラがきちんとした巫女装束を着ているのなら、僕も大人さ、こんなところでいちいちクダを巻いたりはしないよ。これはという絵があれば僕の巫女フォルダに保存してやることだってやぶさかじゃあないんだ。ところがどうだ、その霊夢とかいうあばずれの着ている被服、いったいあれはなんだ。あれが果たして巫女の装束といえるのか。あれはもはやただの、センスのないお洋服とおリボンではないのか。あんなものは偽物だ。贋物だ。あんなへんな服を着た女を巫女と呼ぶのは、ハヌマーンウルトラ兄弟の一員としてカウントするくらい滑稽で愚かしいことなので、一刻も早くgoogle霊夢google八分すべきだ。そして、あのくだらない衣装を発明した絵師は阿鼻地獄に堕ちて六十四の眼を持ち火を吐く鬼に舌を百本の釘で打ちつけられてしまえばいい。 
その3 歩きたばこ
 問答無用で死ね。すぐ死ね。


 数億由旬の広さとうたわれた僕のこころも、こうしてみると大したことがないようであった。むしろ狭い。というか狭すぎる。病的に狭い。羅漢もおどろくこの狭さ。してみると、僕はもしかしたら弥勒菩薩じゃないのかもしれません。より詳細な調査・検討を経たのち、正式な判断は追って報告します。