[rakuten:book:11683403:detail]


「盲獣村」
其ノ一 カフェー・けもの部屋

 船越茂は二十五才の独身の青年で、父は藝術映画の作り手として世界に名を馳せた映画監督、船越浩市であった。船越の作品はそのポスト・モダンな作風で一世を風靡し、海外での評価は今もなお高い。

 茂は一昨年美大の映画科を出たが、映画の道には進まず、大手の新聞社に就職し、今は文化部で仕事をしている。彼は映画をこよなく愛していたけれども、その道に進むにはあまりに父が偉大すぎた。また、彼の映画の嗜好が父親の作風とまるで異なっていたことも彼にとっては不運であった。つまるところ彼は、残酷表現と肉体破壊描写をこよなく愛するスラッシャー映画愛好者であったのである(ちなみに、船越浩市監督はそういったジャンルを地球上から一刻も早く排除すべきものとして極度に毛嫌いしていることは、映画業界に多少なりとも耳聡い者ならば誰もが知っているほど有名な話である)。
 学生時分の茂青年が自主制作のスプラッター映画『テキサス・スシバー・マサクゥル』を撮った時、それを観た父に勘当されかけたことがあった。若い彼は、たとい勘当されても映画を撮り続けるべきだと考えたこともあった。しかし父を裏切り、出奔してまでして映画を作ろうとしたところで、作品に出資者がつくとは到底思えなかった。映画業界における父親の権威は、それほど絶大で絶対的であったのである。自分の立場にあっては本当に好きな映画を撮ることはできぬと悟った彼は、映画の道を捨て、そして人生をつまらぬもの、夜見る夢にも劣るものと諦め、すっかり捨て鉢となってしまったのである。
 しばしの放蕩生活を経てから、彼は父より新聞社の勤め先を紹介された。道楽じみた生活にもいよいよ飽き果ててしまった彼は、父の薦めに盲従することにした。映画制作と比べれば、地味で面白味の無い仕事であったが、考えようによっては平和な生活であったともいえ、さほどの不満は感じなかった。彼はこのような生活があと数十年、淡々と続いていくものであると、そう漠然と考えていた。しかし、彼の人生が、彼の観たいかなるスラッシャー映画よりも残酷かつ陰惨なものとして後の新聞やカストリ雑誌を大きく騒がすことになろうとは、あわれ彼はまったく知る由がなかったのである。

 週末のある晩、船越茂は仕事帰りに中野のカフェー「けもの部屋」を訪れた。金曜の夜は中野ブロードウェイのショーケースに飾られたレザーフェイスやフレディの奇怪なフィギュアを陶然たる心持ちで眺め、その後ブロードウェイ裏手のカフェー「けもの部屋」で馴染みの女給と、古今の猟奇殺人犯や、それにまつわる残虐映画について語らうのが船越茂の最近の楽しみとなっていた。猟奇の街、中野を徘徊する週末の晩だけが、今や抜け殻と成り果てた悲劇の猟奇者・船越茂の身の内に一瞬だけ沸き立つ血と肉とを呼び戻す、唯一心満たされる充足の時間であったのだ。
「きみ、ナミさんを頼むよ」
 席にやって来たパリス・ヒルトン似の化粧の濃い女給にそう告げると、女給は少し困った顔をしながらも「あたくしではお嫌かしら?」と精一杯のしなを作った。
「勿論、嫌じゃあないがね。しかしお嬢さん。僕はね、今日はナミさんと『ヒルズ・ハブ・アイズ』の話をするためにやって来たんだ。お嬢さん、それとも貴女が殺人畸形一家とか、ジョギリ・ショックとか、そういう猟奇的な会話のお話し相手になってくれるというのかな」
「お生憎さまね」
「そうだろうとも。だから、ね。いい子だから、どうかナミさんと話をさせてくれないかい」
「それもお生憎さま。ナミさんは向こうで三池崇史の残虐描写がどうとかいう話を、他の好い人とお話している最中ですもの。向こうのお客もナミちゃんをご指名って聞いたわ。ああ。ああ! 最近はお兄ィさんみたいな変態のお客ばかり。まったく、世も末ね。」
 余所行き用のしなを解き、すっかり無愛想な地の顔となったパリス似の女給が店の奥のほうをあごでしゃくった。この娘は無愛想な顔のほうが色気があるな、と茂は思った。彼女の顔をみて、そういえばパリスは『蝋人形の館』というB級ホラーに出演しており、その作品におけるパリスの死にざまはセレブの道楽とは思えぬなかなかの仕事ぶりであったことをふと思い出した。が、そんなことを語って聞かせてもこの女給相手では話も弾むまいと考え、船越はただ「ふうん」とだけ呟き、腰を浮かして二つ向こうのボックス席の様子を伺った。
 ナミは女給としては致命的なほど寡黙な女で、自分からは全く話を振ることもなかったが、登場人物が残酷な手技によって殺される内容の映画の話をしてやると、とても熱心に耳を傾けた。ナミが隠し持つ暗黒の嗜好のようなものを、船越は密かに愛していた。それに何より、ナミは大抵の男をはっとさせるほど美しい女だった。鼻梁はハリウッド女優のように高く、射抜くような目つきは寒気が走るほどに凛々しく、長い黒髪からは狂おしいほどの色香を湧き立たせており、どこかしら性的にきちがいじみた嗜好を持っている船越などは、ナミのような女にならあらゆる残酷かつ嗜虐的な手段を用いられ無残に殺し尽くされてしまいたいと考えるほどに、冷たく禍々しい美しさを身にまとった女であった。
 店の奥のテーブル席に、ナミ嬢が背中を向けて座っているのが見えた。そしてその対座にはショートフロックを着た撫で付け髪の気取った男が座っていた。更にその隣には、本来カフェーにいることが許される年齢とは到底思われぬ紅顔の美少年がいて、ホットミルクか何かを旨そうに啜っていた。
「はて、どことなく妙な客だな」
 船越は二人の客に妙な違和感と興味を抱いた。特にフロックの男のほうは、新聞か何かで顔を見た覚えがあったが、その正体は、彼から直接身分を明かされるまで思い出すことが出来なかった。
 この夜のカフェーでの出逢いが、船越青年の人生を一変させてしまうことになるのであるが、それはまだ余人の与り知らぬところであり、それを語るにはもう少し時機を待たねばならない。とまれ、後に「盲獣村事件」として本邦の猟奇犯罪史に永く記憶されることになる一連の悲劇の幕は、このとき既に上がり始めており、血にまみれた死者舞踏のため誂えられた忌まわしき因業の舞台は、数奇な運命に囚われた哀れな役者たちの登場を、今や遅しと舌なめずりで待ち構えていたのである。(つづく)