牢獄蔵からの脱出

 探偵は垂直に一尺ほど跳び上がり、そのまま着地し、何事もなかったかのように「それでだね」と話を続けた。
「僕は今まで、こういった監禁状態に陥ったことがない。しかし脱出法を僕は知っている。なぜだと思うかね。そう、わが生業は映画探偵! 特に好きなジャンルは脱獄映画! 銀幕のなかの英雄たちが脱獄を成功させ、そして自由を勝ち取ってゆく過程を何度も見てきた僕にとって、こんな腑抜けた獄舎からの脱出法など、水野晴郎に『シベ超』の続編を作らせるよりも容易いことなのさ」
 見ると、探偵の手には一冊の分厚い本。先ほど取り出した『ぴあシネマクラブ 外国映画編2005-2006』である。慣れた手つきで『ぴあシネマクラブ』を素早くめくる探偵は、目についた脱獄映画のタイトルを片っ端から挙げていく。『穴』『アルカトラズからの脱出』『ショーシャンクの空に』『第十七捕虜収容所』『大脱走』『脱走山脈』『パピヨン』『暴力脱獄』……脱獄映画に駄作なしとはよくいったもので、いずれも名作ぞろいである。
「他にも色々あるだろうが、とりあえずこれだけリストアップすれば充分だろう。あとは、この中から現時点における監禁状況と近似している映画を選び、その映画で実行された脱獄法をそのまま実践すればよいのだ」
「成程、映画から脱獄法を学ぶとは、けだし名案ですね」
「ははは、いいかい鉄仮面くん。“うつし世は夢、シネマの銀幕こそまこと”だよ」
 かくして二人は早速、シネマ式脱獄法の検討に這入ったのである。

「『暴力脱獄』というのはどういう映画です? なにか暴力的な手段を講じて脱獄するのですか?」
「いや、そういうわけではないが。ポール・ニューマンが除草作業の時におしっこに行くフリして脱獄したり、看守の腰巾着になって信頼を得たところでトラックを奪って脱走したりと、やや姑息だね。モダン好みな僕のポリシーには少々反する。それだったら、むしろ『脱走山脈』のほうをお薦めするね」
「それはどういった方法で?」
「ゾウを操って追手のナチスをぶっ殺したりするの」
「それこそダメじゃないですか。モダンでもありません。もっとまじめに考えてください」
 かくして、喧々諤々の論議のすえ、採用されたのは『大脱走』と『アルカトラズからの脱出』の複合案であった。すなわち、

・オーソドックスなトンネル掘りによる脱出
・万一発見された時に備え、三本のトンネルを同時に掘る
・深夜に掘る。巡回の目を誤魔化すため、人形を作成してベッドに寝かせておく

という方法である。
「いいかい、三本のトンネルはそれぞれコードネーム“松子”“竹子”“梅子”と名づけよう。いずれも隣房の双子姉妹の部屋を経由するように掘るんだよ。彼女らも逃がしてあげるんだから」
「はい」
「あとは道具の入手だな。『アルカトラズからの脱出』では穴掘りに使うスプーンの入手に大分てこずっていたが、次の食事の時にでも上手くくすねることが出来るだろうか。いや、そもそも、近世の白神山地とかに住んでそうなたたずまいのあのじじいが、スプーンなどというしゃれた西洋匙を食事に添えることがあるだろうか。そのあたりどうなんだい、鉄仮面くん」
「残念ながら、そのような食器具が添えられたことは一度もありません」
「ううむ。となれば、スプーンの代替品を考えねばなるまい」
「でも、ものはためしです。食事にスプーンを使わせてくれるよう九蔵老人に頼んでみましょうか」
「しかし、急にそんなことを言って怪しまれないだろうか。……ああ、そうか。利き手を怪我してしまって箸が握れないことにしようか。それなら筋は通るぞ」
「いえ、私は元より箸を使っていません」
「なんだって。きみ、それではどうやって飯を食べているのだ。まさか手づかみや犬食いということはなかろうね」
「いえ。僕は摂取する白米の量が常人に比べて尋常ならざるため、巨大ドカベンを効率的に食べるためにいつも移植べらでめしをすくって食っています」
「移植べら! ……ばか、それだよ! スプーンなんかよりも移植べらのほうが断然掘りやすいだろう!」
「成程、さすが探偵さんだ! 私には気づかない視点でした。盲点でした」
「なにを言っているんだ。移植べらというのは元来土をほじくるための道具だよ」
「すみません、長年監禁されているせいで世事にうとくて」
 鉄仮面の顔はこの時、おそらく冷徹に取澄ました鉄製仮面拘束具の下でひそかに紅潮していたに違いなかった。

 食事時にくすねた移植べらを使用し、隣房を経由しつつ土蔵の外まで掘り進む。巡回に備えて、ベッドには手製の偽人形を眠らせておく。これが二人の脱獄計画の全容である。計画は一見完璧で、一分の隙もないように見える。しかし、事は果たしてそう容易に推移するものであろうか? 二人は……いや、少なくとも小心者の鉄仮面は、去来する不安の念をふり払うことが出来なかった。

 ギイ、と鉄扉のきしむ音。時間の流れから隔絶された、いわば「刻の孤島」である土蔵牢の中で暮らしていると時々わからなくなるが、今から配膳されるのはきっと夕餉なのであろう。重苦しい空気に沈んだ牢獄内に味噌汁の香りがぷんと漂ったことから鉄仮面はそう考えた。食事に味噌汁がつくのは夕飯の時だけだからである。
 二段重ねの重箱を四つ並べた程の巨大なアルミニュームの弁当箱にびっしりと敷き詰められた白飯と焼いた鰯、そして味噌汁を配膳用の台車でガラガラと押し進み、そしてせむしの九蔵は鉄仮面房の前で停まった。
「めしの時間じゃて」
 抑揚のない声で、九蔵老人は牢内の二人に告げた。
「普段どおりに振舞うんだ、怪しまれないように」 
そう思いながらも、鉄仮面は自らの筋肉が緊張のため不自然に凝り固まっているのを感じていた。(つづく)