『タナカヒロシのすべて』(前頭)

 かつら工場に勤める無趣味で寡黙で不器用な独身男タナカヒロシ32歳の平穏な生活に突如ふりかかる大小さまざまな不幸の数々。あらゆる不幸に対して受身の姿勢で沈黙を守っていたタナカヒロシは、不幸のどん底の底の底でついに人生に対してようやく積極的に向き合い始める……といったかんじのハートフル32歳独身男ストーリー。主演がかの鳥肌実だというのに、こんなにも心地よい感動を得られるだなんて、いったいどういうことなんだ。ハリウッドにはユニセフ親善大使として世界に貢献し、慈善事業に何万ドルものお金をおしげなくつぎ込む善意の塊のような役者がごまんといるのに、それだのに彼らの演技ではまったくもって泣けず、一方で右翼をかたって創価学会共産党を小馬鹿にすることに全身全霊を注ぐあまりリアル右翼からも風当たりが強まる一方の四面楚歌パフォーマー鳥肌中将の演技に対してはあふるる涙をとどむるすべがないとは、まったくもって世の中まちがってるよ!

 世の中まちがっているといえば、最近の少年犯罪に対する報道姿勢もまちがってると思いませんか。先日も高校生の教室爆破事件なんつうものがありましたが、中高生がヤバい事件をやらかすと、きまって出てくるフレーズが「ふだんは無口で大人しい、勉強のできる子だった」発言。たとえば本作のタナカヒロシなんかも典型的な「無口で大人しい勉強のできる子」の成れの果てでしょうし、僕もこっち側にカテゴラズされる人間です。いってみれば「無口で大人しい勉強のできる子」なんつうもんは世の中にごまんといるわけで、べつにふつうだと思うのですが、酒鬼薔薇事件あたりからの顕著な傾向として、少年犯罪における解明不能な闇の部分に「犯人は無口で大人しい勉強のできる子」という人物像を入れ込んでやることによってなんとなく犯罪の動機・背景、犯罪者の人間的欠陥を理解できたと錯覚してまうような向きがあるような気がします。「無口で大人しく勉強ができる」というごく表層的な部分が犯罪の根源であるかのように捉えられているんじゃないの、と。最近じゃあ学校側の記者会見でも開口一番「彼は普段は大人しく、成績もよい生徒でした」という発言が出てきますが、これは学校側にしてみれば免罪符なわけで、記者も視聴者も「ああ、無口で大人しい勉強のできる子じゃあこんな凶行に走ってもしょうがないよね。無口で大人しい勉強のできる子なんかが一般生徒の中にまぎれこんでいたなんて、校長先生も災難でしたよねー」みたいなかんじで納得しちゃって、学校側に対する責任追及も弱まるということばのマジック。全国に散らばる無口で大人しい勉強のできるふつうの子各位にとっちゃあたまったものではありませんよね。単に大人しくて勉強ができるだけなのに、凶悪犯罪者の予備軍みたいな眼で見られちゃあ立つ瀬ってものがないですよ。

 なので、僕の提案としては、「無口で大人しい勉強のできる子」以外のタイプの小僧がなにかしら犯罪を犯したときも、きちんとそのタイプ・性格をいちいち明確に説明し、「無口で大人しい勉強のできる子」のみに対する偏向した犯罪者イメージを是正していくべきだと考えます。「この少年はふだんからやかましく、勉強もそんなに出来ないアホでした」とか「友だちが非常に多く、友人たちと徒党を組んではカツアゲに精を出すアホでした」とか「スポーツしか能のないアホでした」とか「とにかくアホでした」とか。実際、小うるさいアホのほうが犯罪をめいっぱいエンジョイしているわけなんだから、そこんところもっとしっかりフォローすべきです。

 映画の話に戻りますが、本作だと「無口で大人しい子」のうちでもかなりダメな部類のタナカヒロシの日常にスポットが当てられており、その主人公に対する視点・視線がまたやさしくて、平成九年度全国高校生無口で大人しい勉強のできる子大会東北Bブロック代表補欠の僕にはそれがまたすごく泣けるわけです。キャラクターとして誇張されたタナカヒロシにはあまり共感しないけど、こういう人間を描いた映画がきちんと作られているというのがとてもうれしい。