探偵の自制心、内なる猟奇力に打ち負かされし事

 名探偵ヒモロギはテントの前で立ち尽くしていた。いや、立ちすくんでいた、といったほうが正しいかもしれない。目の前に巨大な赤テントがあり、きっと中ではただならぬ怪しげな催しが行なわれているに相違なかった。元来、探偵などというものは知的好奇心の塊である。むしろ塊でなければならぬ。このような怪しげなテントを見つけた場合、たとえ泣いてすがる老母を振り払ってでも入場するのが探偵の務めである。そういった観点からいえば、猟奇者のヒモロギ氏は探偵業を営むべくしてこの世に生まれおちた探偵のエリートであった。しかし、その彼が怪テントの中に入るのを躊躇しているのはどういうわけか? おそらくは彼の鋭敏な知覚が、嗅覚が、危機センサーが、この危険なテント小屋に入るべきではないと無意識のうちにその身を引き留めていたのであろう。


 テントの入り口では、怪人ジグソウがゆらりゆらりと手招きをしている。その手の動きたるや実に不気味で、サルガッソウ海にひそみ、通りかかる船を捕らえては深く冷たい海の奥底に引きずり込むホンダワラ藻の悪意のゆらめきの如くであった。
「これは怪しい。危険な臭いがする。うん、これは帰るべきだね。そう。僕は数多くの映画から学んでいるじゃないか。『悪魔のいけにえ』の若者たちは、金属片が刺し貫かれた木々の異様さを目の当たりにした時、すぐにその場を立ち去るべきだったのだ。そこは殺人鬼一家の庭先であったのだから。『死霊のはらわた』のブルース・キャンベル一行は、どうしてあんなに怪しい山小屋に泊まってしまったのだろう。地下に魔書が隠されているような不吉な廃墟に泊まるなんて、非常識にもほどがある。『13金』しかり、『マーダー・ライド・ショー』しかり。ははは。君子危うきに近寄らずとはよくも言ったものだね。僕は銀幕の中の馬鹿なヨタ者とは違うのだ。探偵ヒモロギはクールに去るぜ」


 一大決心をし、もと来た道を戻ろうとする名探偵。しかし、彼もまだまだ爪が甘かった。路地の向こうからやってくる異様な一団を見た彼は心を平静に保つことが出来なくなってしまった。一寸法師、空気女、ワニ男、牛女、鱗男、髭女、ピンヘッド、そして気狂いピエロ。フリークスの集団が列をなし、どやどやとテントの中へと入っていくのを彼は見てしまった。ヒモロギ氏は心が震えた。恐怖からではない。喜びからである。これだけのフリークスを目の当たりにし、ヒモロギ氏は生来の変態趣味を押さえることが出来なくなってしまったのだ。
「うわーい、ちーぱっぱ、ちーぱっぱ。アティカ! アティカ!」

 嬉しさのあまり解釈不明な何ごとかを喚きながら、怪人ジグソウからじぐじぐに湿ったパンフレットを受け取り、そうして彼は夕陽を浴びて紅の色を増す赤テントの中へと吸い込まれていった。その光景は、南洋の大蛇アナコンダが捕らえた獲物を咽喉の蠕動運動によって口蓋の奥にずるりずるりと誘いゆく様によく似ていた……。