『ノロイ』

オカルトライター小林雅文がいつしか迷い込んだノロイ道。彼の制作したビデオ、出演したトークライブ、心霊番組、さまざまな映像が細切れに組み合わされ、いつしか「かぐたば」の巨大なノロイが見えてくる……といったかんじのハートフル呪いストーリー。おもしろかったです。

昨今の都市怪談シーンでは「幽霊なんかよりも生きたキじるしのほうがよっぽど怖い」といった流れになっているようですが、そうした流行を反映してか、この映画でも恐怖の中核を担っているのは心霊や呪いよりもむしろ生きたキじるしキーちゃんたち。精神錯乱を起こした女と感情のない子供。アルミホイルに身を包み「霊体ミミズ」におびえる自称霊能力者。しょっちょう意識をトバしては奇怪な行動に走るアイドル。諸星マンガに出てきそうな何を考えているのかわからない村人たち。出てくるのはどこかおかしな連中ばかり。これは理不尽なノロイに恐怖する映画であると同時に、都市や寒村に人知れず潜伏するキじるしたちに戦慄する映画でもあります。ここまでキじるしを気味悪く描くことに成功している映画はそうないと思います。キじるしこえー。

こう何度もキじるしこえーキじるしこえー、なんてことを書くと、「精神に問題を抱えた人々を差別するな!」とお怒りになる向きもあるかもしれませんが、そういう意見はまったくのナンセンスというか。キじるしなんて街で会えば正直誰だって怖いし、じっさい幽霊よりもよっぽど人間に実害を与えることが多いのだから、そういう人々を怖がるなというのは、自分が抱いたごく自然な感情をいつわれということであり、つまり「三遊亭好楽大喜利を聞いて笑え」「ギター侍を見て笑え」「『冬のソナタ』を観て泣け」「ペ・ヨンジュンが来日したら成田でフィーバーしろ」と言われているようなもの。キじるしや障害者は大昔から畏怖の対象でした。だからこそかつてシャーマンは崇敬を集め、かつて見世物小屋の芸人は己の身体と芸にプライドを持っていたのです。キじるしはなんだかよくわからん恐ろしい存在。べつにそれでいいと思うのです。

今日は久しぶりに八時前に退社できたので嬉しくなり、月明かりの照らす夜道を阿波踊りしながら帰りました。久しぶりに自炊をし、パスタを茹でました。汗臭い服を脱ぎ、全裸で台所に立ちました。僕は中心に芯の通ったアルデンテよりもでろでろ柔らかいパスタが好きなので、パスタの入ったずん胴鍋を睨みながら、デロデンテー、デロデンテー、となぞの呪文を唱えて茹で上がるのを裸で待ちました。そんなかんじで、僕もほら、キじるしだから。キじるしがキじるしのことをなんと言おうとべつにいいじゃん。そんなロジックで批判はスルー。